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桜川唯丸 (二代目)

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桜川 唯丸 (二代目)
出生名 山口 浩吉
生誕 (1948-01-14) 1948年1月14日(76歳)
出身地 日本の旗 日本 鹿児島県出水市
ジャンル 民謡
職業 江州音頭取り
活動期間 1977年 -
共同作業者 郷土芸術江州音頭桜川唯丸会

二代目 桜川唯丸(にだいめ さくらがわ ただまる、1948年1月14日 - )は、日本江州音頭取り、歌手鹿児島県出水市出身。

来歴

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  • 昭和50(1975)年頃、栃若清光が主催していた『栃若清光歌謡教室』にスカウトされ通い、歌を本格的に習いだす[1]
  • 昭和52(1977)年、栃若の紹介で『郷土芸術江州音頭桜川唯丸会』に入門し、声質が明るく、本人も大ファンの歌手三橋美智也から名前を取り、師である桜川唯丸から"唯美智"の名前を受けて名乗る。
  • 昭和63(1988)年、自らの会『郷土芸術江州音頭桜川唯美智会』を結成して独立。師匠譲りの進取の会として注目を集める。
  • 平成6(1994)年2月11日、師匠唯丸の引退に拠り、指名されて二代目桜川唯丸を襲名し、唯美智会と従来の唯丸会が合併する事となり、大阪京橋網島町の『太閤園』に於いて『二代目桜川唯丸襲名披露パーティー』が催された。ゲストに初代唯丸のほか、知己のあった国民的歌手である村田英雄[2]、演歌の師である栃若清光が出演し門出を祝った[3]
  • 平成7(1995)年、襲名記念としてオリジナルカセット『江州音頭木津勘助~ヤンレー節/石田三成』を自主製作盤として発売。と、同時に大阪アメリカ村にあったライブハウス『サンホール』でマンスリーライブを開始するが、諸事情で短期間で終了する。[4]
  • 平成17(2005)年、『春一番コンサート2005』に初出演。以後、平成27(2015)年まで出演する。[5]
  • 平成25(2013)年10月14日、『二代目桜川唯丸の夕べ in 都の西北~ワールドミュージックと江州音頭 シンポジウムとライブ・踊りワークショップ~』(於 早稲田大学大隈講堂)に出演。共演、鷲巣功、虹友美、永田充康一座。

門真市を本拠地と定め盆踊りシーズン(毎年7月中旬-8月末、もしくは10月中旬まで)には各地の櫓で活躍を続けている。

コロナ禍のため令和2~4年(2020~2022年)まで数年間活動休止を余儀なくされていたが、令和5(2023)年の夏より活動を再開する。

芸風

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歌謡曲出身という来歴であり、音頭取りに似つかわしくない朗らかながら聴き応えのある声と説得力のある独特の雰囲気を醸し出し口演を続けている。芸題の十八番は天神祭の御所人形でお馴染みの戦国時代末期から江戸時代初期に活躍した義民中村勘助[6]に題を取った落語などでもお馴染みの侠客伝『木津勘助』と師匠譲りの『やんれい節~鈴木主水』など。

指導役

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*桜川唯清(1936~ 長野県飯田市出身 1982=昭和57年、初代唯丸入門 舞台監督 音頭、囃子、太鼓 音響)[7]

*桜川唯玉(1949~ 和歌山県日高郡美浜町出身 1993=平成5年 初代唯丸入門 音頭、囃子、太鼓)[8]

弟子

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  • 桜川唯由里(あのゆかり)1988=昭和63年~ 兼鳴り物=キーボード 大阪市鶴見区)出身 1977~
  • 桜川唯祥 1988=昭和63~97=平成9年、2014=平成26~ 兼鳴り物=キーボード兼囃子 大阪市鶴見区出身 1982~
  • 桜川唯徳(淀川徳丸・間賀凜) 1997=平成9年~2004=平成16年、2015=平成27年~ 唯清教室=唯丸会[9]鳴り物=エレキベースと太鼓 囃子 大阪府門真市出身 1967~
  • 桜川唯幸(2009=平成21 年、唯清教室→唯丸会 囃子 大阪府東大阪市出身 1960~ 『江州音頭界の紀比呂子』
  • 桜川唯岐美(2009=平成21年、唯清教室→唯丸会 囃子 鳴り物=太鼓 隠岐島大阪市大正区出身 1959~ 『江州音頭界の京マチ子』

(江州音頭以外の別の活動名、入門時期、音頭以外の担当 出身地 生年)

演奏形態

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演奏面に於いては唯美智会結成時から、従来の和太鼓、三味線、ギター中心のバンド構成ではなく、当時の伴奏者のほぼ全員がロックバンド及びブラスバンド経験者だったことと、三味線経験者と和太鼓の演奏者らを確保出来なかったことからやむを得ずリズムボックスを導入し、ドラム、エレキギター、エレキベース、卓上キーボード→シンセサイザーを社中に伴奏させ、ハードロックのエスプリを取り入れていた。

江州音頭会で発足時の1988年頃より初めてドラムマシーン/リズムボックスを使用した会派であり、初代唯丸がアルバム『ウランバン』(1990年)を発表した際にプロデューサーの佐原一哉も構成する参考にしたらしいが、あくまで、同会の演奏形態は、前身の唯美智会結成時より会内に『音楽監督制』を採用し、師匠(会主)に指名されたメンバーが中心となり『敷座』他の芸題(演目)の伴奏を構成した。

その都度の音楽監督[10] を中心に構築されたオリジナルであり、その都度細かい変更が音頭取りとバンドメンバーがディスカッションを繰り返し、演者の伴奏を構成してきた。

その後、初代唯丸のアルバム『ウランバン』発売前の専属バンド[11]『スピリチュアル・ユニティ』、三代目吾妻家安丸=七代目歌亀率いる『亀一流安丸会バンド』や志賀國天寿率いる『難儀屋本舗』など近年のロックバンド・フュージョンバンドの江州音頭の伴奏形態にも刺激を与えたとされる。

『二代目唯丸バンド』は一時期(1995~2004ぐらいまで)、ほとんどの演奏者が音頭取りと鳴物(楽器演奏)を兼ねていてメンバー全員が弟子(唯由里+唯徳ほか)であった時期があった[12]

また、以前はゲスト演奏者として関西で活躍しているプロミュージシャンのカオリーニョ藤原(歌手、ギタリスト 桜川唯弦)、口垣内八州彦(キーボード、作曲家。2016年7月26日逝去 桜川唯八州)、太田ピカリ(ドラムス)、東ともみ(ベーシスト)らが唯丸バンドと共に盆踊り櫓で伴奏することもあった[13]

2014年から、日本でも20世紀末から21世紀初頭にかけて輸入された『韓流ポップス』の某ダンスユニットのプロデュース、アレンジ、演奏を手がけ、ベーシストとして数々のスタジオワークでも実績のある京都在住の李庸恩(リ・ヨウウン 1969~)がギタリスト&ベーシストとしてレギュラーゲストとして参加する様になった。

ディスコグラフィー

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  • 江州音頭木津勘助~ヤンレー節/石田三成 (シングルカセット 1995年)

CM

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共演経験のある人々

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関連事項

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出典

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  • 『寝屋川まつり』フライヤー(1996-2011年)
  • 『二代目桜川唯丸の夕べ in 都の西北~ワールドミュージックと江州音頭 シンポジウムとライブ・踊りワークショップ~』フライヤー(2014年8月)
  • 『二代目桜川唯丸』宣伝素材用フライヤー
  • 『CDジャーナル』 (2012年6月号)
  • 『木津勘助伝 : 寛永の飢饉』(藤原秀憲著 昭和49=1974年10月1日 新話出版株式会社発行)

脚注

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  1. ^ 栃若清光(1935.2.7-2014年以降)は昭和50年代に関西地方で活躍した元力士(在籍期間1953~60年、最高位、幕下57枚目)、タレントで、演歌歌手。その頃(1970年代後期から1980年代初頭)、在阪のテレビ・ラジオにも度々出演していた。引退後、長年、門真市に住んでいたが、2014年現在は妻の郷里である長野県上伊那郡宮田村に移住後、民宿を経営し、歌手活動も継続していた。 漫才師の横山やすしが"ごとうしのぶ"(ごとうとしのぶ)のペンネームで作詞した『日陰の女』(1975=昭和50年 自主制作盤→テイチク)は大阪有線放送を中心に関西一円でのヒットに繋がり、後にメジャー盤(EPレコード)としてテイチクレコードから発売された。村田英雄との縁は彼に依る物で、数回二代目自身も村田と歌謡コンサートで共演している
  2. ^ 栃若清光を通じての縁があった。
  3. ^ 初代唯丸の(一時)引退は翌年(1995年)の8月なので、1年半モラトリアム(研修)期間として活動していた
  4. ^ これが2024年現在に至る、各地の江州・河内音頭取りのライブハウス出演のパイオニアのひとつとなる。 それまでは、音頭取り達が経営する自身のカラオケパブやスナックでささやかなディナーショーを公演するのみだった。二代目唯丸も1978(昭和53)~2006年頃まで、居酒屋と中華料理店を経営していた。
  5. ^ この会の正式名称はあまり世間的には知られてなく、他にもイベンター側に用意された会の名称が『桜川唯丸一座』ではあるが、一番知名度のあった同イベントによって定着されることとなる。略称は『桜川唯丸会』。紹介の冒頭の『郷土芸術 江州音頭』の部分は初代唯丸の発案である。過去に『桜川唯丸社中』、『桜川唯丸一行』などと表記されたことがあるが二代目唯丸以下会員はイベンター側の勝手な名称変更を快く思っていない。
  6. ^ 天正14年(1586年)相模(神奈川県)足柄山尾張(愛知県)で生まれた(諸説あり)。 豊臣秀吉に仕え、大坂の陣以前に徳川家康徳川秀忠に仕え、堤防工事や新田開発に尽くした。 これは淀屋橋の語源になった豪商淀屋一族の惣領(跡取り)娘と結婚し、潤沢な資金を得たために、これらの大工事に着手出来たと伝わる。 徳川時代始め頃に、大阪市内の重要な運輸水路となる木津川 (大阪府)の開削により大阪の発展に寄与した功績とともに、寛永16年(1639年)に近畿一円が冷害にみまわれ大飢饉の様相を呈したとき、米(大阪城の備蓄米)放出を願い出たが聞き入れられず、私財を投げうって村人に分け与えた。だが限度があり、ついに「お蔵破り」を決行して捕縛されたことなどから今なお敬愛されている。 その「お蔵破り」の罪で幕府より葦島(現在の大正区)に流され万治3年(1660年)75歳で亡くなったとされ、墓は大阪市浪速区の唯専寺にあり、今も墓参の人が絶えない。 尚、同区地下鉄大国町駅そばにある敷津松之宮/大国主神社には大正11(1922)年侠客3代目南福こと新野伊之助(演芸・放送作家の新野新の祖父)が、彼の功績を称えるために顕彰会を組織し、同会によって銅像が建立されたが、戦時中に供出されたために台座を残すのみとなっていたが、伊之助の子息の新野嘉男(新野新の実父)ら「勘助翁彰徳会」が昭和29=1954年に再建・建立した。
  7. ^ 桜川唯正→辺高正、桜川唯菊(引退)と同期入門
  8. ^ 初代唯丸最後の弟子
  9. ^ 初代期からの同会派指導役の唯清が自宅にて知り合いの愛好家を発掘し指導している江州音頭の私塾。ある程度の上達が認められると二代目唯丸会と合流する。 最初期の教え子に桜川唯千代(1941~)がいて1989=平成元年に唯清教室→初代桜川唯丸に入門。2001年引退した。
  10. ^ 2023年12月現在その内3名が務めている。現在まで5名(レギュラーゲスト含む)。内2名が既に諸事情で2006年頃までに退会している。
  11. ^ ライブでは当時の『桜川唯丸バンド』とは別グループながらライブ出演時はほぼほぼ『桜川唯丸バンド』の名前で共演した。これは佐原はじめプロミュージシャンたちが、それまでの唯丸バンドの功績を鑑み、敬意を評す形で間を取ってこの名称として出演した。尚、初代~二代目は新しい言葉に敏感で伝統的な『社中』という言葉を使用した事は結成以来『古臭い』と考えて使用したことはない。
  12. ^ 演奏者は従来、弟子が師匠から指名されて演奏者になる場合がほとんど原則であったが、一方で外部からゲスト演奏者を招いて伴奏をさせる場合もある。また、見栄えとして師匠(音頭会会主)が音頭櫓の演奏時だけ、ゲスト演奏者に屋号付きの芸名を与えて名乗らせる場合もあった。
  13. ^ 櫓での伴奏はいつまでの期間かは不詳だが、2015年の『春一番 (コンサート)』では伴奏していた
  14. ^ 寝屋川市守口市などの盆踊りなどで複数回共演
  15. ^ (1939~)。初代井筒家小石丸門下から初音家賢次門下に転じた音頭取り・伴奏者。秀若の兄弟子。
  16. ^ 1999年『栃若清光芸能生活35周年記念パーティー』(甲子園)他にて共演。
  17. ^ a b c 同上で共演。
  18. ^ かつての唯丸会の後援会長が『全国村田英雄後援会副会長』だった縁で複数回共演。
  19. ^ 1995頃の夏シーズンに前座を務めた。
  20. ^ 寝屋川後援会発足イベント1999年出演。
  21. ^ 寝屋川市大利の盆踊りで複数回。
  22. ^ 同上の盆踊りにて共演。
  23. ^ 2006年頃?。北河内ケーブルテレビの番組で初音家秀若らと出演。YouTubeに映像あり)
  24. ^ 1998年頃の寝屋川まつり
  25. ^ 2000年頃の寝屋川まつり